hiromame777のブログ

自分との対話

牛タンの会2ndから考えたこと

子どもは方向性が定まっている教師を好むのではないか。

なぜ好むのか。

次何をやるのかどうしたらいいのかわかるからではないか。

なぜ子どもは次何をやるのかどうしたらいいのかわかることが必要なのか。

どうしたらいいのかわからないと不安だから。


この不安を起こさないように、または解消するために「教師が」丁寧な指導や明確な指導(こうあるべきを伝える指導)を行い、安心感を与える。


坂内先生の考え方と指導行動は、

どうしたらいいかは「子どもが」自分で考える。むしろ子ども自身でしか考えられないし、考えること自体が学び方を学ぶことなのだと、強く感じている感じがした。また、わからないことがあること自体に肯定的。わからないから面白い、わからないから学ぶことができる、と本気で思っている。


私はそういうことを考えたこともなかった。

子どものありのままを受け入れる

子どものありのままを受け入れる

学級経営で大切なこと

ありのままとは何かという問いに

今の自分が答えるとしたら

人間は良いところと悪いところ両方持っている

だから人間のありのままとは

良いところと悪いところ両方ある状態

ありのままを受け入れるとは

良いところと悪いところのどちらも

教師の意図で捻じ曲げる事なく受け入れる

ということではないか

 

とことん子どもを人として理解しようとすること、尊重すること、育てること

まずは子どものありのままを観ることができるかどうか

 

ここから学級経営がスタートする

という意味ではないかと思う

楽しい授業が良い理由

良い順に並べると?

A楽しくてためになる授業

B楽しくないためになる授業

C楽しくてためにならない授業

D楽しくなくてためにならない授業

 

A→◻︎→◻︎→D

AとDがこうなるのは確実だが、CとDが少し悩む

 

断然、A→C→B→Dだと言った方がいる

というのを院の授業で耳にした。

 

楽しい>ためになる、という考え方である。

 

楽しいのが良いというのはわかる。

ただためになるより上かな?と私は不思議に思う。

 

今朝、自分なりの答えが降ってきた。

 

楽しい=そのもの自体にやる「価値がある」

だから、楽しい授業は子どもたちにとってやる「価値がある」

 

じゃあ、ためになる授業は…

子どもたちにとってやる「価値がある」ものになっているか

 

楽しくなくても子どもたちにとってやる「価値がある」授業であれば、楽しい授業と同等かそれ以上に良い授業と言える場合もあるのではないかと朝ごはんを作りながら思う。

 

子どもを信じて待つの正体

子どもを信じて待つの

 

信じるとは何を信じることなのか

 

 

私は子どもの可能性だと思う

 

その子どもができるようになる

 

という可能性

 

できる力がある

 

という可能性

 

 

その可能性っていうのはつまり

 

まだ子どもが出来ない

 

未発達なこと

 

なんだけど

 

発達可能だと教師自身が

 

信じる領域のこと

 

だとすると

 

それは

 

ヴィゴツキーのいう

 

発達の最近接領域がある

 

ということを

 

信じて待つ

 

ということになるのではないか

 

 

だとすると

 

発達の最近接領域は一人ではできないけど

 

誰かとやればできる

 

(そして明日は一人でできる)

 

領域だから

 

信じて待つときに

 

子どもを一人ぼっちにしてはいけない

 

つまり

 

子どもが誰かとできるような

 

仕掛けをして待つということが

 

大事なのではないか

 

 

私なりに考えた

 

「子どもを信じて待つ」の正体は

 

「子どもの発達の最近接領域があることを信じて

 

誰かとできるような仕掛けをして待つ」

 

極めると似てくる+成し遂げたいことがある幸せ

同じような姿を目指しているが

 

そこまでの連れて行きかたが違う?

 

でも、どの連れて行きかたも

 

極めていくと

 

とても似てくる

 

それは

 

真理というか

 

人間の本質に迫るものに

 

近づくと

 

自ずとそうなるのかもしれない

 

 

極める前に

 

他の連れて行きかたと競ったり

 

批判したりせず

 

「我々は連れて行きかたが違いますが

 

目指す姿まであきらめないで

 

連れて行きましょうね」

 

と言って別れたらいい

 

 

目指す姿がそもそも違うんだと

 

目くじら立てず

 

自分の置かれた場所で

 

精一杯自分の生き方を

 

全うしたらいい

 

自分の成し遂げたいことを

 

見つけられた人生は幸せ

 

成し遂げられなくても

 

成し遂げたいと自らの意思で

 

多くの時間を過ごせたこと自体が

 

とても幸せなこと

 

だと私は思う

 

客観と主観

私は他の人よりも

 

主観的に何でも考えてしまうなぁと

 

感じることが多い

 

でも

 

自分が周りから見て主観的って

 

他の人よりも

 

客観的に

 

自分を見ることができている

 

 

独りよがりになる今日(笑)

 

 

いやこれは居直っているわけではない(はず)

 

自分で自分にあなたはあなたで良い

 

と承認することで

 

じゃあ

 

その"自分"でできることはなに?

 

できないことはなに?

 

どうしたいんだい?

 

って前向きに

 

次に働きかける動力とする

 

これが大事

 

というか

 

実はこうするしかできないことに

 

気づくというか

 

 

「自分は自分でいい」と

 

慢心ではなく

 

謙虚に

 

素直に生きるのが

 

大事?