hiromame777のブログ

自分との対話

他人のことを言う前に

「他人のことを言う前に自分のことしなさい」

 

と母親によく言われた

 

自分の行動は見えないけれど

 

他人の行動はよく見える

 

子どもにはよくあること

 

 

でも

 

最近自分で自分に同じような言葉を言う

 

「他人のことを言う前に自分はどうなの?」って

 

今の私も同じだろうと

 

子どもの頃となんら変わらないではないか

 

と沈んだ気持ちにもなる

 

 

結局、子どもだろうが大人だろうが

 

自分自身は見えないけれど

 

他人のことはよく見えるんだろうなあ

 

ちゃんちゃん。

 

・・・・とは終わらない

 

 

 

最近気づいてきたことは

 

この他人への見方に

 

自分が現れているということ

 

 

自分というフィルター

 

を通して見た相手の認識なので

 

自分のニーズに合わせた相手の見方をしている

 

 

例えば、

 

相手を悪者にしたいとき

 

相手を尊敬したいとき

 

同じ人を見る見方は全然違ってくるように感じる

 

 

また

 

自分の中に生まれた正の感情でも負の感情でも

 

「もう少し詳しく教えて」

 

と自分に問うと

 

何かしらの自分らしさや欲求

 

出てくる

 

 

他人との関わりの中で

 

負の感情が出てきたとき

 

私はどのようにしてこの人に嫌な感情を抱くのだろう

 

と考えると「自分」の有り様やニーズが見えてくる

 

「ああ、私は命令されるのが嫌なんだ」(自由でいたいんだ)

 

 

反対に

 

正の感情、なんか心地いいと感じたとき

 

私はどのようにしてこの人に良い印象を受けるのだろう

 

と考えるとこれもまた自分のニーズが見えてくる

 

「たぶん、私に関心を持ってくれているのが心地いいんだ」(存在価値を認められたいんだ)

 

とか

 

 

ただし、そうやって自分と向き合うことは

 

新しい自分発見!よかったね、めでたしめでたし!

 

とはならない

 

むしろ

 

自分の嫌な部分や

 

欲深いところに

 

気づいていくことでもあるから

 

 

 

注意したいと思うのは

 

ある人が他人への見方が厳しいとき

 

その人が真面目で正直で、誠実である人ほど

 

自分の有り様と比べて自分を責めたりするので

 

自分で自分を傷つけたりしそうなので

 

そこは気にしたい

 

無理しないでと願いたい

自分で歩く

『自分で歩く』

 

は、一昨年の学級便りのタイトル

 

誰のためでも

 

誰のせいでもない

 

自分で自分の人生を歩いてほしいという

 

意味だった

 

もちろん、

 

自分ひとりで生きよう

 

という意味ではない

 

自分で選択して行こうという意味であり

 

選択していける力があるよという意味である

 

私に足りなかったものは

 

その練習機会を

 

十分に用意できなかったということ

まず幸せになるのは誰?

最近思うのは

 

子どもたちを幸せにするには

 

子どもたちの周りにいる大人が幸せになるのが

 

必要なのではないのかということ。

 

もちろん

 

大人の幸せのために

 

子どもを犠牲するのは論外なんだけれども

 

子どもに関わっている大人が

 

幸せだと感じていることって

 

それだけでも

 

教育効果があるのではないかと思う。

 

 

反対に、

 

苦しい苦しいと生きる姿は

 

子どもたちに

 

何を伝えることになるのだろう

 

なんて思ったりする。

 

 

誰を信じてないのか

自分が言ったことに自信がない

 

自分がやっていることが

周りにどう思われているか不安だ

 

 

これは

 

本当に自信がない(自分を信頼していない)

 

のだろうか。

 

 

自分を信頼していない

 

というよりも

 

自分の話をあたたかく聞いてくれる人として

 

「相手を信頼していない」と

 

いうことなのではないか。

 

 

大学の授業の話し合いの中で

 

自分が意見を言っていると

 

自分の自信のなさに驚く。

 

それと同時に声にストレスがのる

 

あー、今の話し方良くないなあと

 

分かっているけれど

 

直せない。

 

みんなの視線が寒々しく感じる。

(事実はそんなことはないのだけれど)

 

 

「分かっているけれど直せない。」

というのは違うという話もあるが、

 

そうだとすると

 

私はまだ一つの正しさを求めていて

 

その傲慢な自我を

 

相手に何とかして分からせたい

 

という

 

無意識が働いているのかもしれない。

ノートを取る理由

ノートを取りなさい

 

と強制されると

 

言われたから書いたというのが

 

その理由だと勘違いしてしまうけれど

 

本当はノートは

 

人間の思考を整理させてくれるもの

 

記憶を補ってくれるもの

 

他の人と共有させてくれるもので

 

それぞれの人にとって

 

学ぶために

 

とても役立つものなのだけれど

 

と思う。

 

 

日本の教師の役割とトップダウン

ふと思ったこと

 

日本の教師の仕事の内容が多いのは

 

求められる教育の範囲がひろいから

 

求められるということは

 

日本の社会に他に担う人がいないという

 

歴史や現状があるわけで

 

特に

 

諸外国では教会等が担っている

 

第三次教育(人格の完成.個性の開花)

 

までも学校教育、

 

つまり教師の役割の一つになっているように

 

世の中に理解されている

 

そう考えると

 

各教師がそのリーダーシップ(影響力)

 

によって自由に教育を行うことを許す

 

ということは

 

国の制度としては認めがたい

 

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だからかなー

 

トップダウンが染み付いた教育のあり方も

 

なるべくしてなった

 

という

 

変に納得した朝

 

 

 

 

 

 

 

 

グループは何に影響されたのか

グループワークは、

一番影響力(リーダーシップ)のある方の態度

に影響される?

 

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今日の授業はグループワークだった

 

私たちのグループは8人

 

20代から40代までのメンバーが協働して課題に取り組む

 

今日が初のグループワーク

 

一番最初に口火を切ったのは

 

一番年上の方だった

 

どうする?と言われても、なかなか意見が出ない。

 

話しても先が見えず、ポツポツ意見が出ても腑に落ちない、繋がらない感じである。

 

誰も答えが分からない問いに向かうのは不安。

 

なかなか意見が出なくて少し重い空気になる。

 

こういう時に、グループの構成員の特徴が出るのかなと思う。

 

「他のグループの様子見てくる」と言って

 

一番年上の方が動く、その場を離れる

 

すると、残りのメンバーは、どうしたか・・・

 

休憩する、雑談するわけでも無く、

 

ちょっとリラックスした感じで

 

二番目くらいに年上の方が、どうする?と問い、

 

他のグループに見に行った方が帰ってくるまで

 

自分たちができることをして待っている

 

 

べつに、年功序列というわけではないが

 

自分が言うべきかな?と

 

と感じた人から話していく感じだった。

 

今回は、年上&経験年数が多い順にそれを感じたということ。

 

ある意味よくあるパターンだったのかもしれない。

 

逆に、年下の子たちの側からすると、

 

全部丸投げしているわけではないが、

 

はっきりとした意見がないのに言いにくい

 

といったところだろう。

 

 

その後

 

課題解決に直接繋がるかは分からないが、

 

一人ずつ順番に案を出す(パス有りで)

 

ここで、それぞれに発言の場が設定された

 

自信はないけど自分の番になったら

 

言うしかない。

 

いろいろ出し合って

 

また、じゃあ、どうする?となる

 

<休憩5分>

 

年上の方中心にみんなで一人ひとりに今の思いを聞く

 

これがやりたい。これでいいのかな。

それぞれの率直な今の気持ちを共有する。

 

そうすると、自分と同じ気持ちだったんだなとか、

その不安わかるわかる。と言う雰囲気になったように感じる。

 

そこで、ある方がある案を出す

 

楽しそう

それやりたい

 

雰囲気が和らいだ気がした。

 

来週までに作る余裕がある方、作りたい方が作ってくると言うことになった

 

実は、

それぞれ抱えている忙しさが違うと言うことが

雑談の中から見えてきたので

 

(採用試験の勉強があるとか、他の授業の課題が多いとか)

 

自分が出来そう、得意そうというという方が

 

取り組んできて

 

それを元に来週みんなで考えましょう

 

ということになった

 

ちょっと、ゆるい縛りなのかもしれない。

 

私は

 

こういうゆるい感じの協働を体験したことない。

 

でもこのメンバーなら

 

これでいけるような気がした。根拠はない。

 

 

がっちり枠をはめて、

 

誰かが言った意見を通してという道も

 

あったのだろうか?

 

 

今回のグループワークの発言の特徴は、

 

一番年上の方の、みんなどうする?の受容的なリーダーシップと、自分から主体的に動くというリーダーシップからスタートし、

 

その次の年代が割と多く意見を言い、

 

一番年下の年代は

意見を求められたら言う

 

みたいな年功序列型。まさしくプレ職員室‼︎と思った。

 

が、このグループのよかったと思うことは、

 

それぞれの思いを言う場が取れたこと。

 

それぞれの考えや状況、得意分野が共有されればされるほど、構成メンバーの所属意識は高まり、参加意識も高まる?

 

いい案を出そうとか、最初からガツガツ焦って進めようとするよりも、構成員の関係性ができて課題を自分事として取り組めるようになったら、能力を十分に発揮できる?

 

もしそうだとすると、途中で

 

年上の方がジュースやお菓子を買ってきて配ってくれたり、

 

雑談

(課題とは関係ないことを話題)をしてくれて

 

相互理解を深めることに時間を使ってくれたことって

 

柔らかな空気感を作るのに

 

ホントに大事なことだったのかなって思う。

 

それに、自分だけが主導権を握ることに拘らなかったと言う点も

 

柔らかな空気感のもとだったのかもしれない。

 

 

グループは、

 

やっぱり一番影響力のある方の態度

 

に影響されると思った午後。