子どもを信じて待つの正体
子どもを信じて待つの
信じるとは何を信じることなのか
私は子どもの可能性だと思う
その子どもができるようになる
という可能性
できる力がある
という可能性
その可能性っていうのはつまり
まだ子どもが出来ない
未発達なこと
なんだけど
発達可能だと教師自身が
信じる領域のこと
だとすると
それは
ヴィゴツキーのいう
発達の最近接領域がある
ということを
信じて待つ
ということになるのではないか
だとすると
発達の最近接領域は一人ではできないけど
誰かとやればできる
(そして明日は一人でできる)
領域だから
信じて待つときに
子どもを一人ぼっちにしてはいけない
つまり
子どもが誰かとできるような
仕掛けをして待つということが
大事なのではないか
私なりに考えた
「子どもを信じて待つ」の正体は
「子どもの発達の最近接領域があることを信じて
誰かとできるような仕掛けをして待つ」