hiromame777のブログ

自分との対話

学校に自由はあるのか

この質問をある先生にしたところ

 

それは、「リバティ」と「フリーダム」の違いだよ

 

と教えてくれた

 

「リバティ」にも民主的な手続きで決まったルールによるものと、

 

国王の決めたルールっていう2種類あるけど

 

私は自分が属してる社会のルールは

 

踏まえた上での

 

自由は学生に保障している

 

と話してくださった

自由と自分勝手の違い

少し前の話

 

ある方が、

 

「自由と自分勝手の違いってなんだろう」

 

と私たちに問う

 

私たちはあーだこーだと

 

頭を三角にしながら

 

話し合う

 

「じゃあ、学校に自由はあるのかな?」

 

とさらに問う

 

また頭をパンパンにしたり

 

ぐるぐるしたりして考える

 

 

「結局、学校に子どもたちの自由なんてってないんじゃないかと思うんだけど、どう思う?」

 

うーーーん

 

すごく考えた

 

 

それから1ヶ月

 

そんな話をしたことも頭の隅っこに追いやられて

 

忘れかけていたのだけど

 

読んでいた本の中に「自由」という言葉を見つけ

 

また、フラッシュバックする

 

"実存主義とは気づき、そして選択することができるという立場をとっています。そして選択することができるということが〈自由〉ということの本当の意味なのです。"「気づきのセラピー はじめてのゲシュタルト療法」百武正嗣 春秋社

 

また、ぐるぐるする

 

自由になるためには気づかないといけない

 

じゃあ

 

自分勝手は気づいてない?

 

何に?

 

この本によると、"私という存在が〈死と孤独〉への不安を持っていることに気づいた時に初めて、そのことを乗り越えるために自分はどのような生き方をしたいのか〈選択する〉ことができるようになる"

らしい…

 

不安に気づくと、選択できるようになるの?

 

 

この前一緒に

 

頭を三角にして考えた友達に

 

今度あったら聞いてみよう

他人のことを言う前に

「他人のことを言う前に自分のことしなさい」

 

と母親によく言われた

 

自分の行動は見えないけれど

 

他人の行動はよく見える

 

子どもにはよくあること

 

 

でも

 

最近自分で自分に同じような言葉を言う

 

「他人のことを言う前に自分はどうなの?」って

 

今の私も同じだろうと

 

子どもの頃となんら変わらないではないか

 

と沈んだ気持ちにもなる

 

 

結局、子どもだろうが大人だろうが

 

自分自身は見えないけれど

 

他人のことはよく見えるんだろうなあ

 

ちゃんちゃん。

 

・・・・とは終わらない

 

 

 

最近気づいてきたことは

 

この他人への見方に

 

自分が現れているということ

 

 

自分というフィルター

 

を通して見た相手の認識なので

 

自分のニーズに合わせた相手の見方をしている

 

 

例えば、

 

相手を悪者にしたいとき

 

相手を尊敬したいとき

 

同じ人を見る見方は全然違ってくるように感じる

 

 

また

 

自分の中に生まれた正の感情でも負の感情でも

 

「もう少し詳しく教えて」

 

と自分に問うと

 

何かしらの自分らしさや欲求

 

出てくる

 

 

他人との関わりの中で

 

負の感情が出てきたとき

 

私はどのようにしてこの人に嫌な感情を抱くのだろう

 

と考えると「自分」の有り様やニーズが見えてくる

 

「ああ、私は命令されるのが嫌なんだ」(自由でいたいんだ)

 

 

反対に

 

正の感情、なんか心地いいと感じたとき

 

私はどのようにしてこの人に良い印象を受けるのだろう

 

と考えるとこれもまた自分のニーズが見えてくる

 

「たぶん、私に関心を持ってくれているのが心地いいんだ」(存在価値を認められたいんだ)

 

とか

 

 

ただし、そうやって自分と向き合うことは

 

新しい自分発見!よかったね、めでたしめでたし!

 

とはならない

 

むしろ

 

自分の嫌な部分や

 

欲深いところに

 

気づいていくことでもあるから

 

 

 

注意したいと思うのは

 

ある人が他人への見方が厳しいとき

 

その人が真面目で正直で、誠実である人ほど

 

自分の有り様と比べて自分を責めたりするので

 

自分で自分を傷つけたりしそうなので

 

そこは気にしたい

 

無理しないでと願いたい

自分で歩く

『自分で歩く』

 

は、一昨年の学級便りのタイトル

 

誰のためでも

 

誰のせいでもない

 

自分で自分の人生を歩いてほしいという

 

意味だった

 

もちろん、

 

自分ひとりで生きよう

 

という意味ではない

 

自分で選択して行こうという意味であり

 

選択していける力があるよという意味である

 

私に足りなかったものは

 

その練習機会を

 

十分に用意できなかったということ

まず幸せになるのは誰?

最近思うのは

 

子どもたちを幸せにするには

 

子どもたちの周りにいる大人が幸せになるのが

 

必要なのではないのかということ。

 

もちろん

 

大人の幸せのために

 

子どもを犠牲するのは論外なんだけれども

 

子どもに関わっている大人が

 

幸せだと感じていることって

 

それだけでも

 

教育効果があるのではないかと思う。

 

 

反対に、

 

苦しい苦しいと生きる姿は

 

子どもたちに

 

何を伝えることになるのだろう

 

なんて思ったりする。

 

 

誰を信じてないのか

自分が言ったことに自信がない

 

自分がやっていることが

周りにどう思われているか不安だ

 

 

これは

 

本当に自信がない(自分を信頼していない)

 

のだろうか。

 

 

自分を信頼していない

 

というよりも

 

自分の話をあたたかく聞いてくれる人として

 

「相手を信頼していない」と

 

いうことなのではないか。

 

 

大学の授業の話し合いの中で

 

自分が意見を言っていると

 

自分の自信のなさに驚く。

 

それと同時に声にストレスがのる

 

あー、今の話し方良くないなあと

 

分かっているけれど

 

直せない。

 

みんなの視線が寒々しく感じる。

(事実はそんなことはないのだけれど)

 

 

「分かっているけれど直せない。」

というのは違うという話もあるが、

 

そうだとすると

 

私はまだ一つの正しさを求めていて

 

その傲慢な自我を

 

相手に何とかして分からせたい

 

という

 

無意識が働いているのかもしれない。